先日、香港のデモについても記事を書きました。
そのデモは、勝利とまではいきませんが元々の予定を止めることはでき、考えを改めさせるチャンスを得ることができました。
香港の事情を知ることで、なぜデモが起きていてどんな状況なのかが理解できましたが
『香港』という地域について何があってい今の形になったのか過去に何があったかなどは分かりませんでした。
そんなわけで今回は私の理解を深めると共に香港についてあなたにも理解いただけるよう分かりやすく解説していきます!
他の記事で空港でデモが行われた理由やデモが過激化してきていると言われる理由についても書いています。(リンクは記事の最後にも貼っています)
【香港デモ】空港デモの理由と平和だったデモが過激化しているのはなぜ?
https://tana-tyu-u.com/culture/1347/
香港について
香港について述べていきます。
香港簡単アレコレ
香港は正式な名前は『中華人民共和国香港特別行政区』公用語は広東語と英語です。
中国大陸の南東海岸にあり、東シナ海に面しています、近辺の海は波が穏やかで水深が深く
『天然の良港』として知られています。
香港で有名な物といえば、そう『100万ドルの夜景』
100万ドルの夜景って実は日本が発祥なの知っていましたか?しかも100万ドルって見える景色の電気代をさしているんだとか…..チョット残念ですよね
そんな電気代がかかりまくりな香港ですが、島などを含めた面積は1104平方キロメートルこれは、
沖縄本島よりもチョット小さいです。因みに東京ドーム23612.4479個分
香港は700万人の香港人が生活していて人口密度が高いことでも有名です。
香港は実は1つではなく3つに分けられます。
- 香港島
- 九龍半島
- 新界
⒈香港島は香港の歴史、政治、経済の中心地である中環は島の北部にあります。海洋公園などの観光地やショッピングモールなどが多く存在。
⒉九龍半島(クーロン半島)はショッピング、芸術、エンターテイメントで賑わう地区です。有名な九龍城があったことでも知られます。
⒊新界は香港の面積の90%を有する反面、香港の人口の半分しか住んでいません。
2000年になる前は自然が多く見られた地区だったようですが、人口の多さに伴い土地開発や商業施設が多く建設され、他の地区に負けない発展をしています。
香港の名前の由来
香港の名前の由来について説明していきます。
香港のなの由来については幾つかの説が存在しています。
その中でも最も有力な説が、『香木説』
『こうぼく』は白檀などの香りのある木材の事、香木の積み降ろしの行う港があったことから、その周辺を香港と呼ぶ様になったんだとか。
文献などのに香港の文字が登場するのは、1700年頃からなのでこの少し前などから香港と呼ばれるようになったのかも知れません。
香港の歴史
香港の歴史について解説していきます!
香港というと頭に浮かぶのは『イギリスの植民地』だったことですよねでも、香港はもちろんその前から歴史が存在していますし様々な出来事があります。
先史時代の香港
先史時代とは『文字などの記録がない時代』よく聞くものに『石器時代』などがあり
文字の記録がないので、遺跡だとか、道具、住居の跡からその時代の事を調べます。
香港の先史時代の遺跡は複数見つかっていて、2006年には西貢市(新界西南)では4万年前のものと思われる石器が見つかり、旧石器時代から人々が生活していたことが分かりました!
香港が現在の香港島の様な形になったのは、6000年ほど前のことでその頃には既に多くの人々が生活をしていることが、発見された紀元前3000年前の石器からわかっています。
先史時代以の香港 アヘン戦争とかまで
紀元前221年、『秦』という国が中国を統一します。
大陸の西側に拠点を持っていた秦は周辺の国々を統一すると、領土を広げ始め、香港などのある南部も統治され南海郡と呼ばれる様になりました。
その後、秦の末期に中国大陸で王朝に反発する人々によって反乱が発生し大混乱発生
南海郡も南部の他の郡と協力し『南越国』という王朝を建国
南越国は現在の香港から海沿いにベトナム北部まで伸びる細長い国で100年ほど繁栄します。
紀元前111年に漢の武帝に滅ぼされ、香港も漢の支配下に入ります。
その後は、すっ飛ばしますが
大きな事件が起きたのは
16世紀
見慣れない船が 香港を占拠したのです。
その船は 『ポルトガル船』
この時代のポルトガル船は、アフリカやインドの港という港を制圧していた海の王者!
その時の王朝の明は、ポルトガル追い払うことに成功し、現在のマカオである広州で交易を開始します。
しかし、この時は朝廷が交易を管理していたので香港で漁業をしていた人達はしたいのにできない状態、、、まぁ目を盗んでしていたみたいです。
17世紀、明王朝が倒れます、そして清王朝が誕生
交易に対する、規制が緩み海外との交易は盛んに!
18世紀
イギリスの『東インド会社の船』が広州に訪れ、イギリスの商館が建てられました。
東インド会社は財力・武力・特別な権限をも持った会社で、ヨーロッパの国以外と交易できる数少ない会社です。
ヨーロッパでは、香辛料とお茶の大ブームの真っ最中だったので、東インド会社は中国からお茶と香辛料を大量に買い付け利益を獲得していました。
しかし、東インド会社も問題に対峙します、イギリスからの輸出品が中国では売れないのです。
イギリスは、茶や香辛料の対価として銀を使っていましたが、お茶に銀を使うなんてイギリスとしては面白くありません。
そこで、イギリスは考えアヘンを輸出することにしたのです。
香港とアヘン戦争
18世紀前半、イギリスはアヘンの輸出を始めます。
アヘンは薬として使われる一方で、依存性などを挙げる声もありました。
そんな、アヘンはイギリスの目論見通り中国で流行し、イギリスと中国の貿易の均衡はこれまでのイギリスの不利な状況から一転、中国ではアヘンの輸入量が茶の輸出量を上回り、イギリスから得ていた銀もイギリスの帰ってしまいます。
アヘンが蔓延したことを真剣に考え始めた、清王朝は1839年に規制に乗り出し、輸入を禁止し船も厳しく取り締まりました。
イギリスはこれに反対、両国間では争いが続き武力行使が起きて
アヘン戦争が勃発します。
結果はイギリス海軍の強さの前に清王朝が負けることに….
1842年『南京条約』によって
広州・上海・福州・厦門(アモイ)・寧波(ネイハ)の開港と自由貿易
そして、香港の『永久譲渡』を言い渡しました。
因みにこの後もいざこざが続いて、清がイギリス&フランスとも戦うアロー戦争も勃発!
北京条約で戦争は終わりますが、天津の開港と九龍半島の南部一部をイギリスへ譲渡することになりました。
そんな、感じで香港、イギリス植民地時代が始まります。
香港イギリス植民地時代
そして時始まった、香港のイギリス植民地時代。
香港に様々な変化が訪れます。
香港は海があったり、気候も良いことから多くに人々が暮らしたいましたが、貿易の拠点は主に広州そこまで表立ってはいませんでした。
しかし、イギリスの植民地になったことで事態は変わります!
アヘン戦争やアロー戦争など混乱の中の清から逃げ出そうと、香港に人が殺到、これまで7000人とも言われていた人口は12万に!
イギリスの植民地となったことで、イギリスの植民地統治機関が置かれたちまち貿易都市に発展
移り住んだイギリス人の為の社交場や医療機関、学校なども続々と作られました。
こうして、イギリスの植民地となったことで、香港は飛躍的な発展を遂げるのです。
香港のイギリス植民地としての発展は、その他の土地へも影響を与えます
九龍半島は南北で国境ができたので、地域のいざこざや国境での衝突を和らげようと、北側も手に入れよと考えます。
1898年、九龍半島の北側(新界)の99年の租借に成功しました。
中華民国や中華人民共和国の誕生、日本軍との香港
1912年アジア初の共和制国家、中華民国が誕生します。
1941年、第二次世界大戦の最中に香港は日本軍によって占領されます。
日本軍はイギリスの植民地の香港を、変化させようと様々な政策を行いました。
- 日本語の使用を指導
- 地名や建物を日本風に
- 貨幣の発行
などを行い、香港を日本風に染め上げようとしたのです。
しかし、日本軍の占領は長くは続きません
日本が敗戦したからです、約4年ほどで香港から日本軍は撤退します。
そして1949年、中国共産党率いる中華人民共和国が誕生。
この時、イギリス植民地では独立運動が盛んに行われ、インドやアフリカなど多くの国がイギリスから解放されていきます、しかし香港は独立せずに植民地として発展を続けました。
香港中国返還に向けて
1982年、当時のイギリス首相の「マーガレット・サッチャー」が中国に訪れ、予てから問題視されていた香港新界の租借期限についての話し合いが始まりました。
イギリス
- 新界の租借期限延長したい、返すとしても新界だけだよね?
中国
- 延長なんて応じないし、なんなら香港、九龍半島も返して
両国の話し合いの結果
強気の中国の交渉によって、香港、九龍半島までもが返還される事になりました。
1984年12月、イギリス、中国の両国が署名した声明文が発表され、香港は中国の特別行政区になる事が決定しました。
返還が行われたのは1997年の7月1日
声明文の中には
- 50年間2047年まで、資本主義体制を取り、社会主義政策を香港では行わない事
- 一国二制度が香港で行われる事
- 香港の最高責任者は選挙や協議で選出する事
などが書かれていました。
これが、現在2019年6月などに起きている、香港のデモに大きく関わっています。
イギリスの植民地になった事で香港は大きくそして独自に発展しました、その為中国の一部となる事に不安を覚え、他の国に移住する人もいたようです。
香港返還とその後、今の問題について
ついに1997年7月1日に香港はイギリス植民地から、中国特別行政区へと変わりました。
155年ぶりに帰ってきた、香港そして長い間違う道を歩んできた中国とは、上手く歩んでいけるのでしょうか?
返還後の香港は平穏ではありませんでした
1997年、タイから始まった、アジア通貨危機はアジアの様々な国の通貨暴落を招き香港もその影響を受けます。
2003年には、SARS(重症急性呼吸器症候群)が発生し、2000人が感染299人が亡くなる事態にこれは観光都市の香港としてはかなりの痛手になります。
悪い面だけではありません、2005年には香港ディズニーランドが開演多くの観光客の誘致に成功しました。
また、今起きている問題として挙げられるのが、香港のデモです。
それについてはこち他の記事で詳しく解説しています、是非読んでください!
香港のデモの理由をわかりやすく解説!逃亡犯条例や雨傘運動と一国二制度についても
様々な国の植民地になり、資本主義でありながら、社会主義国家の中に生きる香港はこれからどのように発展しどのように変化していくのでしょう。
最後にまとめ
今回は香港の歴史などについてお話ししました。
- 香港には旧石器時代から人がいた
- アヘン戦争によって、イギリスの植民地に
- 植民地になった事で、人口が10倍以上になって発展もした
- 1941年から4年間日本の植民地になり、日本語の使用や貨幣の発行を行い日本風の染められた
- 1977年、155年ぶりに中国に戻った
- そこから、中国特別行政区として今を生きている
香港のデモについて記事を書いたことから興味が湧きこの記事を書き始めました。
時代や世の流れに翻弄されるとはこの事だなと思います、また色々出来事がありすぎてわかりやすくとか言いながら、私理解が追いつかず苦戦してしまいました。
空港でデモが行われた理由やデモが過激化してきていると言われる理由についても書いています。
【香港デモ】空港デモの理由と平和だったデモが過激化しているのはなぜ?
https://tana-tyu-u.com/culture/1347/
コメント
25年前に香港のドッグレース場に行きました。10万円賭けたらオッズが一発で凄い変わり驚きました。ペニンシュラホテル泊まりましたがホテルマンの素晴らしいサービスが忘れられません。餃子はやはり旨かった。ぼったくりバーに入ってしまいマフィアのレスラーみたいな人3人に脅されましたが支払い交渉して3万円ですませました。多分普通の人は有り金全部いかれる位ヤバかった。